九 安政6年、最初の日本茶輸出は殆どが伊勢茶|川俣谷のお茶|108teaworks

九 安政6年、最初の日本茶輸出は殆どが伊勢茶であった

横浜港からの輸出

安政6年(1859)日本は外国の開国要求に屈し、遂に函館、横浜、長崎の3港を開き、外国との貿易が本格的に始まった。

当時、日本からの輸出品は生糸、お茶、菜種油などの農産物が主で、特に生糸とお茶は国を挙げて奨励した。

射和村の竹川竹斎は、早くから中央政界に通じ、特に勝海舟らと親交厚く情報を得ていたため、来るべき開国に備え生糸、お茶が輸出品として需要が見込めることを見越して「開墾茶桑園図帳」を発起し、農民に原野を開墾し桑、茶を植えることを勧めた。

一方、竹斎から情報を得た大谷嘉兵衛らは横浜に出て、郷里の川俣谷茶を積極的に買い集めたため、川俣谷では茶栽培熱が高まり、山間急傾斜地を問わず茶が植えられた。

日本茶業史には、安政6年横浜港からの最初の日本茶輸出量は40万斤で、その殆どは伊勢茶であったと記述しているが、この伊勢茶は川俣谷茶が中心であった。

日本茶の最初の輸出先は主にイギリスであったが、イギリスは紅茶消費国で緑茶の消費が見込めないと見るや、輸出先をアメリカに求めた。当時アメリカは建国100年ほどの国で、喫茶(紅茶)文化が定着していなかったため、安い日本茶は面白いほど売れ、日本茶ブームを巻き起こしたと記述されている。

横浜開港以来、9年後の慶応3年(1868)には神戸港が開かれ、粥見茶などは神戸港に相当量送られた模様である。


四日市港からの輸出

開国当時の製茶は、主に横浜、神戸港から輸出されていたが、清水港、四日市港が、明治22年(1889)に横浜、神戸の中間港として特別輸出港に編入され、明治32年(1899)8月に開港外貿易港として指定されたことに伴い、静岡茶は清水港から、伊勢茶は四日市港から輸出されることになった。

四日市港には外国商館や横浜茶商が支店を構え伊勢茶の買い付けを行ったが、これらを仲介する産地茶商(問屋)が続々誕生した。

明治41年(1908)の四日市港からの茶輸出額は、四日市港総輸出額の15.4%、額で46万余円であった。当時三重県の茶産額は58万貫で、その3分の1が四日市港から輸出された。

四日市港茶輸出数量(単位:千ポンド)

| 年次 | 輸出量 | 年次 | 輸出量 | 年次 | 輸出量 | |------|--------|------|--------|------|--------| | 明治37年 | 565 | 明治44年 | 1,065 | 大正7年 | 3,309 | | 明治38年 | 944 | 大正元年 | 1,530 | 大正8年 | 2,087 | | 明治39年 | 850 | 大正2年 | 1,897 | 大正9年 | 1,318 | | 明治40年 | 942 | 大正3年 | 2,438 | 大正11年 | 1,064 | | 明治41年 | 1,515 | 大正4年 | 2,339 | 大正12年 | 1,719 | | 明治42年 | 1,551 | 大正5年 | 2,314 | 大正13年 | 1,418 | | 明治43年 | 2,007 | 大正6年 | 3,367 | 大正14年 | 616 |

輸出茶の仕向け先(単位:千ポンド)

| 年 | 米国 | 英国 | |----|------|------| | 1862(文久2年) | 1,305 | 2,845 | | 1863(文久3年) | 1,979 | 1,630 | | 1864(元治元年) | 2,475 | 2,506 | | 1865(慶応元年) | 6,533 | 989 | | 1866(慶応2年) | 6,723 | 667 | | 1867(慶応3年) | 7,685 | 1,257 | | 1868(明治元年) | 10,183 | 489 | | 1869(明治2年) | 13,464 | 100 | | 1870(明治3年) | 15,714 | 25 | | 1871(明治4年) | 16,043 | — |


川俣谷茶の輸出で活躍した先人

〇竹川竹斎(1809〜1882)

文化6年5月25日、飯野郡射和村(現松阪市射和町)の射和商人で知られる富豪竹川家(東竹川家)6代・政信の長男に生まれる。21歳のとき、地域の水田を潤すため私財を投じて「上の池」を完成させ、26町歩の水田の灌漑を完成させた。竹斎は智謀に富み、若くして中央政界に通じ、特に勝海舟とは親交厚く情報を得ていたため、来るべき開国に備え、輸出品として生糸、茶などの需要が増えることを見越し、農民に桑、茶を植えることを勧めた。

竹斎は、粥見村の永田善次郎などと連携し、川俣谷茶を買い集め、実弟の養子先で江戸に大店を持つ伊勢商人「竹口家」に送り、江戸で販売し、更に横浜に送って外国商社に売り込んだ。明治15年(1882)11月1日没、享年74歳。

〇大谷嘉兵衛(1844〜1933)

弘化元年12月22日、飯高郡谷野村(現松阪市飯高町宮本)で父吉兵衛、母つなの4男として生まれる。幼名藤吉、8歳の時、大谷家の菩提寺長楽寺の住職から約5年間、読み書き、そろばんを習い12歳の頃から家事を手伝いながら読書で独学を続ける。

嘉兵衛19歳の時、隣村出身の横浜で製茶売込商を営む小倉藤兵衛(伊勢屋藤兵衛)に奉公し、見込まれて22歳の時、小倉藤兵衛の養子となる。しかし養父と意見が合わず養家を出て、慶応3年(1867)にスミスベーカー商会の製茶買受人となって、大阪を拠点にして山城、近江方面から70万斤の製茶を買い付け、茶貿易界の新記録となる。大谷の製茶買い付けは、すべて見本取引で現金で支払い、支払った金額は26万7,000両にのぼり、その大胆な取引は人々を驚かせた。この取引でスミスベーカー商会だけでなく、大谷自身も巨利を得、これを元手に横浜に茶売込商「大谷」を開業し独立する。

中でも、大谷の偉業の一つとして有名なのは、明治32年(1899)米国フィラデルフィア万国商業大会に日本代表として出席した大谷は、アメリカ合衆国大統領マッキンレーに面会を求め、当時、日本茶に対して高率の関税を廃止すべく直談判し、遂に茶税廃止法制定をさせたことである。

また、大谷は財界人としても大きな功績を残している。明治32年(1899)フィラデルフィア万国商業大会に日本代表として出席した際に、日本とアメリカを結ぶ太平洋海底電線の敷設の必要性をアメリカ政府に働きかけ、遂に太平洋商業電線会社の設立に至るなど、商業通信史上にも大きな足跡を残している。

大谷は昭和8年(1933)2月3日、89歳にして生涯を閉じるが、茶業界では「茶聖」として、その偉業を称えられている。以上の大谷の偉業に対し、明治40年(1907)貴族議員、勲三等瑞宝章、大正4年(1915)正五位、大正12年(1923)紺綬褒章が贈られ、更に横浜市宮崎町伊勢山大神宮境内、静岡市清水公園に顕彰碑が建立されているが、大谷の生誕地、松阪市飯高町宮本にも平成13年に顕彰碑(胸像)が建立された。

〇高瀬藤八(1848〜1913)

嘉永元年9月10日多気郡向粥見村(現松阪市飯南町向粥見)に生まれる。藤八は谷野村の大谷嘉兵衛が横浜に出て茶売込みを行っているのに刺激され、慶応3年(1868)、神戸港でも茶貿易が始まるや、20歳で神戸港近くに茶売込所を設け、外人商社相手に川俣谷茶を売り込んだ。藤八は著者の曾祖父にあたり、祖母からの話では、藤八は明治の終わりごろも自家製茶のほか、付近農家の製茶も買い集め神戸に送り、茶どき(茶の季節)以外は神戸の店に逗留し製茶を売り込んでいた。

向粥見村は明治22年(1889)、粥見村に合併したが、その後も藤八は粥見村議、向粥見区長を務め、櫛田川に架かる新高橋や有間野橋架橋に尽力している。大正2年8月15日没、享年65歳。


写真・図版

竹川竹斎(1809〜1882) 竹川竹斎(1809〜1882)

大谷嘉兵衛(1844〜1933) 大谷嘉兵衛(1844〜1933)

高瀬藤八(1848〜1913) 高瀬藤八(1848〜1913)

大谷嘉兵衛が角谷市兵衛に宛てた書簡(飯高町赤桶・角谷宏氏所蔵) 大谷嘉兵衛が角谷市兵衛に宛てた書簡(飯高町赤桶・角谷宏氏所蔵)

大谷嘉兵衛の製茶仕切り書(飯高町赤桶・角谷宏氏所蔵) 大谷嘉兵衛の製茶仕切り書(飯高町赤桶・角谷宏氏所蔵)

横浜港外国居留地の賑わい(広重画) 横浜港外国居留地の賑わい(広重画)

明治32年(1899)外国直輸出港に指定当時の四日市港 明治32年(1899)外国直輸出港に指定当時の四日市港

江戸時代に使用された製茶貯蔵兼出荷用茶壷(飯南町高瀬家所蔵) 江戸時代に使用された製茶貯蔵兼出荷用茶壷(飯南町高瀬家所蔵)

米国シカゴ万国博覧会における日本茶宣伝館・明治38年(1905) 米国シカゴ万国博覧会における日本茶宣伝館・明治38年(1905)

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