八 江戸時代の伊勢茶流通経路|川俣谷のお茶|108teaworks

八 江戸時代の伊勢茶流通経路

江戸時代に伊勢茶は伊勢商人の手で江戸をはじめ出羽秋田・酒田まで販売されたことを前項で述べたが、文献から推察すると中世から江戸初期に伊勢茶を商いしていたのは、射和・相可商人で、主に敦賀を拠点に出羽秋田・酒田まで伊勢茶を送っていた。寛文〜延宝年(1661〜1681)頃になると江戸の人口も増加し、江戸への陸運、海運網の整備が進むと日本海ルートの出羽秋田・酒田送りは江戸を経由して行われるようになった。この頃、三井をはじめ伊勢商人は大挙江戸に大店を出している。

さて、当時の伊勢茶送りを整理すると次の4ルートとなる。


一、敦賀経由、出羽秋田・酒田送り

江戸時代初期の伊勢茶の敦賀経由羽州秋田・酒田送りの様子について、畠清次「江戸時代における茶の生産と流通に関する一考察」に次の記述がある。

「伊勢茶の下り始め」
伊勢茶の下り始めは天正17年(1589)年丑の2月、勢州多気郡射和・相可の商人が既に出羽・最上へ商棚(出店)を出しているので、伊勢茶を桑名—横曽根まで川船で遡行し陸揚げして、牧田経由関ヶ原—醒ケ井—番場—米原湊—湖水船積—塩津湊を経由、新道野—疋田—敦賀湊へ送りたいと勢州商人が依頼して帰った。

─中略─

寛永20年(1643)末の夏茶荷物おびただしく疋田に滞茶したため、一日2度茶荷物を運んだがはかどらないので、切銭にて粟野十ヶ村、山村等の寄馬で数日続けてようやく下げ切れた。しかし今度は出航した伊勢茶船の5隻が七尾で囲い船となり越年し坂田へ着いたが、船2年分を請求され、荷主負けて2年分船賃を払わされた。…やっと万治3年(1660)子の夏より再び茶荷物は塩津へ復活した。

「付記」:承応4年(1655)頃の古文書に九千本下着、此内相可・射和2千・いせ松坂・田丸3、4本、ミノ谷(美濃茶)4、5千本とあり、松坂町商人・田丸商人(小俣商人)も敦賀送りに参加していた。

  • 註五 敦賀経由の出羽秋田・酒田送りは、天正・慶長年間を盛期として、江戸時代に入って東海道・中山道の整備、海運の発達と伊勢商人の江戸進出で衰退の道をたどる。

二、信濃路(中山道)経由の江戸送り

江戸中期までの荷物の運搬は主に馬が使われ、松坂にも早く伝馬所が設けられたが、この頃の伊勢商人の荷物の江戸搬送は、東海道よりむしろ信濃路(中山道)を利用していたようで、信濃路の中馬問屋が伊勢商人の江戸送りの荷物を扱った資料が多く見られ、その中に伊勢茶の名も多く見られる。

東海道は大河川の渡しが多く、洪水時には何日も荷止めされることもあり、安全な信濃路を経由したと考えられるが、信濃路は山間部の険しい山道が多いため、馬による荷物の運搬を業とする中馬制(中馬問屋)が発達した。更に信濃国(長野県)は善光寺を中心に古くから都市を形成し、江戸にも勝る消費地で、特に信濃人は茶好きで、伊勢茶の信濃卸しは相当あったことも中馬問屋の資料で伺える。

以下、畠清次「中馬問屋による伊勢茶の信濃・江戸への流通」の記述(抜粋)を紹介する。

茶屋伊右衛門 松本本町(茶商兼中馬問屋)

貞享3年(1688)の「大福帳」によれば、取引先は遠江・甲斐を含む87ヶ村346人に及び、中心は上伊奈31ヶ村207人で、煙草、木綿、海産物の外に伊勢茶、立茶、あべ茶、牛久保茶を取扱っており、伊勢茶は塩尻(東筑摩郡)牧島(更級郡)新町(上伊那郡)等に販売されている。

茶屋九左衛門 松本本町(中馬問屋)

元禄7年(1694)10月から同9年1月までの「萬荷物請帳」によれば、取引先は松本町16人を含め70ケ町村174人で、立茶と共に伊勢茶の販売も見られる。


三、海上輸送(船運)による江戸送り

江戸中期になると造船技術や航海技術の進歩と港湾の整備が進み、物資の運搬も馬から海上輸送が主流となった。特に大口港(松阪港)、白子港(鈴鹿市)は紀州藩の手で早くから整備され、伊勢商人の荷物の迅速な大量輸送を可能にした。伊勢商人が全国に先駆けて江戸進出を果たしたのは、この海上輸送を確立したことが大きいと云われている。

大口港(松阪)、大湊(伊勢)に至る茶の集荷運搬については、櫛田川左岸域の茶は茅原(松阪市茅原町)、櫛田川右岸並びに宮川左岸域の茶は、相可(多気郡多気町相可)から川舟に積み替え、櫛田川を下り大口港で海船に積み替え白子港に運ばれ、白子港から千石船で江戸に運ばれた。また宮川流域の茶は宮川を川舟で下り、大湊から江戸に運ばれた。この海上輸送は明治中期まで続き、明治22年(1889)鉄道網の敷設と、明治32年(1899)四日市港の外国直貿易港指定で、その役目は終わった。

  • 註四 竹川竹斎日記、文久2年(1862)1月17日の記録によれば、茶勘定として、上物2,169両。下物287両。合計2,456両。外に箱代、川下し、銀4貫500匁。海上運賃4貫850匁。横浜口銭173匁、計3,107両の記述があり、川下り、海上運賃を明確に記している。

四、山城宇治・大坂送り

山城宇治(京都府宇治市)は古くから茶商人の集合地として栄え、全国から製茶を買集め再加工(再製)し宇治茶として流通していた。当然において伊勢茶の宇治茶問屋卸しも行なわれていた。

川俣谷茶の宇治送りは、川俣越又は仁柿越─奥津─太郎生─長瀬─西田原─笠置を経て山城宇治へ、又は、笠置で川船に積み替え木津川を下って大阪に至るルートがあり、元文元年(1736)の大阪における製茶移入量は140万斤で、主に山城、伊賀、伊勢から入った(大阪市史)とあり、川俣谷茶もこのルートで運ばれた。

古来、一志郡川上から長瀬を経て笠置に至るコースは、「茶の道」と呼ばれ、茶を積んだ馬車の往来が明治時代まであった様である。

なお、このルートの伊勢茶搬出は伊勢商人より近江商人・大阪商人の関与が大きかったとも云われている。

北伊勢の茶(菰野・水沢など)は山城宇治に運ばれ宇治茶として販売されたが、その搬送ルートは、員弁郡、朝明郡、三重郡の北伊勢の茶の多くは、鈴鹿山脈の峠越で近江の茶どころ政所(現滋賀県永源寺町)を経由し山城宇治に運ばれた。搬入道として、八風越(石樽村—朝上村切畑—愛知郡東小倉村─八日市─宇治)と千草越(千草村─蒲生郡市原村─八日市─宇治)がある。

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