七 粥見村茶業の勃興|永田善次郎の功績|川俣谷のお茶|108teaworks
七 粥見村茶業の勃興
〜永田善次郎の功績〜
鎌倉初期、川俣谷に端を発した茶業は江戸後期になって下流隣接の粥見村で大きく開花した。
飯南町史には、天保年間(1830〜1840)、粥見村の永田善次郎は、山城国宇治湯屋谷村の有名な製茶家永谷武右衛門に師事し宇治製茶法を習得、帰村し附近の茶葉を買い集め自ら製茶し、これを宇治に送ったところ大いに賞賛を博したことに自信を得、一層研究工夫し村内に宇治製茶法を普及させたと記述されている。
宇治製茶法とは、元文3年(1738)山城国宇治湯屋谷村永谷宗円なる人物が編み出した手もみ製茶法で、以降の日本の緑茶製法の基礎をなすもので、永田善次郎が師事した永谷武右衛門は、その子孫に当たる人物であろう。
永田善次郎が川俣谷に伝えた宇治製茶法は、従来の製茶法に比べ茶葉は緑濃く針の様に細長く撚れた茶で、川俣谷では雀舌のごとく細く尖った茶の意味で「雀舌茶」として江戸に送り人気を博した。
また、飯南町史には、〝当時の粥見村は畦畔に茶が点散する程度で、農家はこれを自家用に加工し、番茶と称して一部、松坂地方に搬出していたが、製茶技術もなく品質は劣り、価格も安く「得る所は失う所を償って剩す所殆どなし」と云う有様であったが、永田の宇治製茶法導入で品質は飛躍的に向上し茶の有利なことを得、村人は競って原野を問わず茶を植え幕末には南伊勢屈指の茶産地となった。また、永田が導入した宇治製法はたちまちにして近隣の村々に普及したことから、彼を以って南伊勢茶業の祖と称えられている〟と記している。
- 註一 粥見村の茶業は永田善次郎の尽力で大いに発展し、この地方の茶は伊勢茶として横浜、神戸に送られ、主にアメリカに輸出された。一方、村内でも茶を取り扱う茶商が出現し、明治2年(1869)同村の製茶師は17人、製茶生産高9,575貫と記録され、荷主(産地茶問屋)として戸田藤右衛門(粥見村)、高瀬藤八(向粥見村)らは直接横浜や神戸に出て外国商社相手に売り込みを行なった。
- 註二 明治15〜16年頃、村内の山に登って見渡したところ、約200戸が茶部屋(茶加工場)を建築しているのを見たと云う程、茶は盛んであった。また、茶どき(茶の季節)には茶摘み労働者が3,000人位、志摩、度会の各地方から入り込んだものである。(古老の言い伝え)
- 註三 粥見村は周囲山に囲まれ耕地が少ないが、少ない耕地に茶を植えたため米など食糧が極端に不足し、3,000人を超える茶摘み労働者に少量の米に芋などを煮込んだ「おじや」と称する粗食を提供したことから、今でも「粥見おじや」として当時の粗食を言い伝えられている。(野呂森市氏談)
- 註四 竹川竹斎の「護国論・後編」には、次の記述があり、永田善次郎の宇治製茶法の普及と時期的に符号する。「我ガ国、茶産ノ大ナル事ハ、我ガ伊勢川上ハ、平素、呑ムトコロノクバンチャヲ出スニ名アリトモ、精製スルコトヲ知ラザリシ——今ヲ去ルコト十五七年前、山城宇治ノ人来リテ、雀舌茶ノ製ヲ教エシニ、未ダ三十年ニ及バズシテ、精製ノ煎茶ヲ江戸ニイタシ、国内販売ノトコロ、年々、三万五千金ニモ及プベシ…云々」文中の「山城宇治ノ人来リテ、雀舌茶ノ製ヲ教エシ」とは、粥見村永田善次郎を指すものと思われる。
- 註五 永田善次郎が伝えた宇治製茶法は、さらに工夫改良を加えられ伊勢製茶法「片手葉揃揉み」として、明治元年静岡に伝わり静岡県茶業発展に大きく貢献した。
















