十 川俣谷茶業、苦難の時期|伊勢茶の名声が消えた経緯|川俣谷のお茶|108teaworks
十 川俣谷茶業、苦難の時期
〜伊勢茶の名声が消え去った〜
幕末〜明治にかけて茶輸出の先鞭をつけた伊勢茶も明治の中頃になると、茶輸出に陰りがみえ、全国的な茶の増産は粗製乱造を生み、滞茶の増加と価格の低下、更にはアメリカが日本茶に対する高額課税で歴史ある川俣谷茶にも苦難の時期を迎える。アメリカ向けの日本茶輸出は大谷嘉兵衛の懸命の努力(品質改良と茶課税撤廃)で持ち直すかにみえたが、インド、セイロンなどの紅茶攻勢、昭和に入ると日本の軍国主義の台頭でアメリカとの関係は深刻化し輸出はストップした。アメリカ輸出の主要産地であった伊勢茶は最大の危機を迎え、三重県茶業聯合会議所は販路を北支(満州)やロシアに求め、販路確保に奔走したが、戦争突入で茶輸出の道は完全に閉ざされるに至った。
一方、国内でも明治5年(1872)群馬県高岡に全国初の近代的製糸工場が完成、三重県にも続々と大資本の製糸工場が進出し、国の方針も茶業振興から養蚕振興に転換を余儀なくされ、戦時(昭和15年)の川俣谷の茶園面積は明治20年に対し3分の1まで減少した。川俣谷でも茶園の中に桑を植え、また、こんにゃく芋を植える混作畑が多く見られ、大部分の茶農家は茶と養蚕、こんにゃく芋の複合経営を行なった。
しかし、川俣谷では茶園を完全に他作物に転換せず、僅かながらも茶樹を残す努力が行なわれた結果、戦後の茶園復元は他の地域より早かったと云われている。
この様な事態において終戦を迎えた三重県茶業界は、緊急課題として茶園復元(増産)に取り組み、戦後の茶不足もあって昭和50年代には明治初年の茶園面積まで回復しましたが、輸出に頼っていた三重県茶業は国内の販路獲得に後れをとり、宇治茶や静岡茶の原料茶供給産地として生きるすべをなくし、何時しか歴史ある伊勢茶の名声も忘れ去られてしまった。
また、戦後は木材景気に沸き、幕末から明治初年に急傾斜地まで植えられた茶園(茶山)は植林され川俣谷の急傾斜地茶園は自然消滅した。
写真・図版
仙台大博覧会における伊勢茶接待所・昭和3年(1928)
満州大連での伊勢茶喫茶所・昭和7年(1932)
共同製茶場(飯南町粥見)
手もみ茶台(焙炉)が並ぶ
手もみ茶製造風景
















