三 江戸時代、既に川俣谷はお茶の大産地|川俣谷のお茶|108teaworks

三 江戸時代、既に川俣谷はお茶の大産地であった

〜当時の茶は主として山に植えられ「茶山」と呼ばれていた〜

川俣谷にお茶が伝えられたのは鎌倉時代初期とされているが、当時は主に山の傾斜地に茶が植えられ、今の様に肥培管理することなく自然放任の茶樹から若芽を摘み火に焙って飲用していた。川俣谷茶隆盛の転機は元和5年(1619)に紀州藩松坂領となり、紀州藩の茶処として特別の保護を受け、また、櫛田川下流の射和商人・相可商人がこの地方の製茶を主要商品として扱ったことに由来する。さらに享保元年(1716)徳川八代将軍吉宗公に川俣谷茶を献上したことで一躍有名になった。

江戸時代の茶産地の具体的な様子を示す資料は少なく想像の域を出ないが、当時、川俣谷を中心に南伊勢地方は日本一の茶産地であったことは間違いない。

以下、飯高町郷土誌、飯南町史などの資料から当時の川俣谷茶業の様子を探ってみる。

〇飯高町

川俣谷は伊勢茶発祥の地として知られ、一帯は江戸時代には県下有数の茶産地で、この地で産する製茶は伊勢茶として江戸をはじめ東北地方にまで送られていた。幕末に横浜に出て茶貿易商として成功、後に茶聖と崇められた大谷嘉兵衛の生誕地でもある。また、横浜で茶貿易商を営んだ「伊勢屋藤兵衛」こと小倉藤兵衛も隣村の森村出身である。宮前村の堀内家の資料には、〝天保3年(1831)4月から製茶を江戸に出荷、同6年(1835)2月茶部屋新築する〟とあり、幕末から明治にかけての荷主(産地茶問屋)は下滝野村の滝川屋吉郎右衛門、井上八郎右衛門、宮之前村の堀内利右衛門、赤桶村の角谷市兵衛、田引村の久保善兵衛、七日市村の西林宗助、田中谷蔵、森村の小倉吉右衛門の名がある。

〇飯南町

江戸時代前期の寛文4年(1663)粥見村大指出帖に、茶小物成金三拾九両三歩、銀六匁三分とある。茶小物成とは茶税のことで、飯南町史の編者が当時の換算資料を基に茶園面積を240町歩と推定している。この面積は現在の飯南町の茶園面積を凌ぐものであり、当時は、現在の茶園と異なって山の傾斜地を利用した所謂「茶山」であったと考えても、江戸時代の初めに、既に広大な茶園が存在していた。飯南町史では、〝粥見村は川俣谷では一番耕地面積を持つ村であるが、水利確保が困難で寛文4年(1663)の頃の水田は、僅かに13.3%で他は畠地であった。文化14年(1817)高束池が完成し水田は大幅に増加した〟と記述しているが、水利不足が茶業を発展させたとも云える。

水田が開拓された以降は、茶業は一時衰退したが、〝天保年間(1830〜1844)に粥見村永田善次郎が蒸製茶法(宇治製茶法)を村内に広め、品質の良好なことから茶況は回復し、また、安政年間、茶輸出が開始されるや、川俣村出身の大谷嘉兵衛や射和村の竹川竹斎らが川俣谷茶を積極的に買い上げたため、茶業熱は再び高まり、明治3年(1870)の茶輸出量は9,575貫で、茶師17名〟と記されていて、茶業の発展は多くの荷主(産地茶問屋)を生み、その中でも、戸田藤右衛門(粥見村)、高瀬藤八(向粥見村)などは横浜や神戸に出て直接売り込みを行なった。

寛文4年(1663)大指出帳による茶小物成(茶税額)

  • 深野村 茶小物成 金拾八両三歩 銀弐匁肯分七厘五毛
  • 横野村 茶年貢 銀六匁 茶小物成 金三両三歩
  • 上仁柿村 茶年貢 銀百四拾弐匁四分 茶小物成 金弐両三歩 銀八匁弐分弐厘五毛
  • 下仁柿村 茶年貢 銀拾弐匁
  • 粥見村 茶小物成 金三拾九両三歩 銀六匁三分

明治4年(1869)大指出帳による茶小物成(茶税額)等

  • 深野村 産物 紙 茶 串柿
  • 横野村 産物 茶 串柿
  • 上仁柿村 産物 茶
  • 下仁柿村 産物 茶 茶小物成 金三匁 銀七匁専歩
  • 粥見村 産物 茶 茶年貢 銀八拾三匁四厘 茶小物成 金三拾九両専歩 銀七匁専歩
  • 向粥見村 産物 茶 茶口 金弐拾八両三歩 銀窘匁八歩五厘

註 向粥見村は勢州田丸領多気郡に属し、江戸時代の資料は見当たらない。

(以上、飯南町史より)

なお、明治中期の粥見村茶業の隆盛について、「伊勢茶の経済的研究 昭和29年刊行」には、次のように記述している。

〝明治15年頃、村内の山に登って見渡したところ、約200戸は茶部屋(茶加工場)を建築しているのを見たと云う程、茶は盛んであった。また、茶どき(茶摘み時期)には茶摘み労働者が3,000人位、志摩、度会の各地方から入り込んだものである。(古老の言い伝え)〟

以上の様に、川俣谷に端を発した茶業は、江戸時代になって下流隣接の粥見村茶業を興し、櫛田川流域から宮川流域の村々に伝播して現在の南伊勢茶業の基礎を築いた。


近隣村々の茶産地の様子

美杉町

雲出川上流域の川上村(津市美杉町川上)は「背書国誌」に記載する伊勢川上とする説が有力で、櫛田川上流域の川俣谷と並んで伊勢茶発祥の地とされている。

川上村の茶業は一時衰退するが、慶長年間(1596〜1614)に赤堀平右衛門によって再興され、江戸時代には津藩藤堂家の御領茶園として茶栽培は盛となり、同地方の茶は江戸でも川上茶として販売されたとの記録がある。

江戸時代、伊勢商人が川上茶を扱ったとの記録は今のところ見当たらない。ただ、雲出川上流部は津藤堂藩領と紀州藩松坂領が入り込んでおり、紀州藩松坂領の上多気村、竹原村、奥津村などの茶は伊勢商人が集荷し伊勢茶として販売していた様で、雲出川上流の茶業地帯の中心地であった川上村、太郎生村、八知村、八手俣村、下多気村、下之川村、宇気郷村などの茶は津藩藤堂家の統制のもとに川上茶として販売されていた様である。なお、明治維新後は、大谷嘉兵衛ら伊勢商人が伊勢茶として販売し、多くの荷主(産地仲買人)が出現している。

「三重県の茶業(大正9年発刊)」には、明治時代の美杉村茶業の盛況について、「一志郡八幡村川上は、背書国誌にも記せる所謂伊勢の川上にして茶園の古きこと全県に比類なく、全村殆んど茶園を以て覆はれつつあり、春の茶時此方面に入込む茶摘女は2,000人を超ゆると伝へ、古へ僧高弁が一枝を植ゑ。忽ちにして十数カ村に美麗なる茶園を見るに至りしは蓋し地味の茶樹に適するものにて、下之川村、太郎生村、宇気郷村、多気村地方は今尚ほ品質優良なるもの多く、南伊勢に於ける製茶の本場となれり」と記述されている。なお、明治20年(1887)の茶統計では、一志郡の茶園面積は560町歩、次いで飯高郡509町歩で北勢茶産地を凌ぐ県下第1の茶業地帯であった。

大台町

文禄8年(1594)の検地帳に、勢州多気郡之郷柳原村小物成(茶年貢)若干貫、同じく栃原村茶年貢六斗とある。今から400年前には既に茶はあった。大台町史の編者は、この課税額(小物成)を茶園に換算し、柳原村六反余、栃原村二反六畝としているが、恐らく現在の茶園の形態ではなく、自然放任の茶樹が山地か田畠の隅に植えられていたのではなかろうか。

時代は下って、慶応2年(1866)の多気郡、度会郡大指帳の合計欄に、「小物成金二百五拾両三分二朱七分雑税茶年貢」とあり、この税額から推測すると、幕末には宮川流域は大きな茶産地を形成されていた。

大台町史には、安政年間(1818〜1830)頃、神瀬村(現大台町神瀬)に中西惣蔵なる茶商あり、多気郡下は勿論、飯南郡、度会郡の製茶を買い集め、宮川を舟で下って、大湊(現伊勢市)で千石船に積み替え江戸、横浜に送った。中西の「製茶勘定目録控(明治3年未年十二月吉旦)」に、この年、一年間で扱った金額は1万7,000両余りと記述されていることからも、背景には茶の大産地があったことが想像できる。

度会町

安永2年(1773)に於ける中川地区の大指出帳には、次の茶口(茶税)の記述があり、この額からみて、江戸後中期には相当の茶園面積を有していた。

| 村名 | 茶年貢 | 茶口(茶税) | 戸数 | |------|--------|------------|------| | 麻加江村 | 銀四匁五分 | 金21両・銀三匁八分 | 58 | | 長原村 | ─ | 金35両三分・銀八匁九分二厘 | 119 | | 坂井村 | 銀六匁 | 金4両・銀四匁二分 | 48 | | 田口村 | 銀百匁 | 金30両二分・銀四匁八分五厘 | 80 | | 注連指村 | ─ | 金8両一分・銀一匁一分 | 45 |

(度会町史より)

度会地域の製茶は宮川を舟で下り、大湊(現伊勢市)で大型船に積み替えられ江戸、横浜に送られたが、宮川河口左岸の小俣、右岸の山田には、荷を扱う茶商が誕生し、双方で荷の奪い合い訴訟になったとの記述がある。

大紀町

江戸中期の元禄2年(1699)野尻村大指出帳に茶口金拾七両弐分、銀拾六匁弐厘、他に舟賃四百文、相可村へと記述されている。茶口額からみて、当時相当な産地があり、舟送りをしていたことが伺える。また、安永2年(1773)黒坂村は茶口金六両三歩の記述がある。なお、この記述からして、宮川流域のお茶も相可商人が扱っていたことになる。

北伊勢の茶産地

水沢村郷土史稿には「延喜年間(901〜922)飯盛山浄林寺(現四日市市水沢町「一乗寺」)の住職玄庵が先代住職より空海直伝の製茶法を伝承し、当寺に播種された唐伝来の茶樹より摘採し、村人に喫茶を勧めた云々」の記述があり、これを以って、北勢地方の茶伝来としているが、その後の消長が明らかでない。

現在の北勢茶産地の始まりは、寛永年間(1624〜1643)の菰野藩主土方雄高が藩士に茶栽培を奨励したことに始まる。土方は宇治から山本勘右衛門なる茶師を招いて、当時の製茶法であった釜炒製茶を普及させ、さらに、天文3年(1733)宇治湯屋谷村の永谷宗回が編み出した宇治製茶法(蒸製茶法)が注目されると、宇治から茶師を招いて宇治製茶法を普及させ、江戸中期には菰野茶として山城宇治を初め江戸でも人気を博した。

現在の北勢茶業の中心をなす水沢茶業は、水沢村常願寺住職中川教宏の茶業奨励に始まるとされている。

「水沢村郷土史稿」によると、中川教宏は「嘉永2年(1849)、水沢村三本松に三反歩の茶園を拓き、村人に茶の有利なことを説き、茶栽培を大いに奨励した。中川の茶栽培について、常願寺の檀家衆は、この様なことをすべきでないと反対したが、とき恰も茶貿易開始されんとする時期でもあり、次第に茶を栽培する者が出てきた。例えば、水沢村大谷松兵衛なる者は文久2年(1862)に「藩主土方の許しを得て原野三反歩を開墾し茶園を拓く」との記述ある。中川教宏は今日の水沢茶業の基礎を築いた第一人者であるが、幕末の茶業熱を喚起した人物に四郷村室山の伊藤小左衛門(四世)がある。小左衛門は、自家の山林三町歩を開墾して茶園をつくり、また、茶貿易が始まると、近隣の茶葉を買い集め製茶し、これを横浜に送って利益を得た。小左衛門の成功を見て、三重郡をはじめ、鈴鹿郡(現鈴鹿市、亀山市)、奄芸郡(現津市芸濃町など)などで茶園を作るものが続出し、明治初年(1868)には鈴鹿山麓一帯に広大な茶産地が出現した。なお、北伊勢の茶は主に近江商人の手で山城宇治に送られ、宇治茶商人によって宇治茶として全国に販売された。


写真・図版

三峰山中腹の茶株(江戸時代の茶山跡か・飯高町) 三峰山中腹の茶株(江戸時代の茶山跡か・飯高町)

白猪山山中の茶山跡(飯南町) 白猪山山中の茶山跡(飯南町)

推定樹齢200年以上の茶の大樹、平成5年頃枯死(飯南町) 推定樹齢200年以上の茶の大樹、平成5年頃枯死(飯南町)

飯盛山淨林寺跡と云われる宮妻峡谷山中の茶山跡(四日市市指定史跡) 飯盛山淨林寺跡と云われる宮妻峡谷山中の茶山跡(四日市市指定史跡)

同・茶株(推定200年以上)(四日市市水沢町) 同・茶株(推定200年以上)(四日市市水沢町)

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