四 江戸初期、伊勢商人が出羽秋田まで伊勢茶を販売|川俣谷のお茶|108teaworks

四 江戸初期、伊勢茶は伊勢商人の手で江戸をはじめ、出羽秋田まで販売されていた

文献や資料から江戸時代の伊勢国茶産地は南伊勢(雲出川流域、櫛田川流域、宮川流域)であったのは間違いない。中でも櫛田川上流の川俣谷や雲出川上流の川上・多気谷は最も歴史も古く、室町時代に既に茶産地が形成されていた。

元和5年(1619)川俣谷は紀州藩(和歌山藩)に編入されると、藩の茶処(番所)として、さらに茶業は旺盛となり茶生産は拡大した。

また、櫛田川中流部の丹生地域には、古くから全国有数の水銀が産出し、下流の射和・相可には、水銀商品を扱う商人集団(射和・相可商人)が派生し、富山、国分、竹川、家城、浦木(城)、西村、向井など豪商が江戸を拠点に東北地方まで商圏を拡げていた。

川俣谷茶も、これら商人の手で全国に運ばれ伊勢茶として販売されたが、江戸初期に伊勢茶を主に扱ったのは、櫛田川下流地域の射和・相可商人で、当時、出羽秋田、酒田まで伊勢茶を送っていた記述がある。


当時、活躍した伊勢商人

〇富山家(現松阪市射和町)

富山家は射和商人の代表格の豪商(大黒屋)で安土桃山時代には既に小田原に出て、江戸開府と共に伊勢商人の先頭を切って江戸に進出していた。

元和2年(1616)の「足利帳」には〝江戸茶之内利之内とらせ申候〟〝江戸舟ちん〟〝ちゃ売ちん〟の文字が見られ、江戸との間で伊勢茶取引の様子が伺われる。

寛永15年(1638)8月の「算用帳」に〝外に四拾四両君分酒田にかけ候へ共先之足利入不申〟とあり、取引商品の殆どは茶で合計530個余、茶代金は小判504両にのぼり、在庫品の中に伊勢茶と並んで伊勢木綿が見られる。

寛文3年(1663)の記録に〝百弐拾九両酒田五郎兵衛より請取申金也但春夏両度もめん、茶下候金銀差引して残金也〟とあり、富山家は敦賀(福井県)から船便で酒田(山形県)に伊勢木綿、伊勢茶を送っていた。また、酒田から〝右者酒田五郎兵衛方より敦賀へ米、大豆登せ申売次第茶買下し申筈に候〟とあり、帰り船に酒田で米、大豆を積む、一種のバーター取引が行われていた。

〇浦木(城)三四兵衛 阿波曽村(現松阪市阿波曽町)

射和の豪商で寛永・明暦・寛文の頃(1624〜1673)にかけて江戸、羽州酒田、敦賀、大阪に商棚(出店)を構え、伊勢木綿、伊勢茶、美濃茶、鯉節や秋田米、庄内米、最上大豆などを、この当時既に為替を利用して多角的遠隔地取引を行い、交易範囲は江戸、大阪、羽州酒田、越前敦賀、美濃など数ケ国に及んでいる。

万治3年(1660)、寛文9年〜10年(1669〜1670)の「棚卸算用帳」によると、大阪、京都、大津の畿内で西国物産を仕入れて、敦賀より海路を利用して出羽庄内に荷物を送り、鶴岡に支店を設けて一族の者を配し、秋田方面迄小間物、生活雑貨、米、伊勢茶、塩、大豆等あらゆるものを商いしている。

万治2年(1659)の「売上物請取」にはその年の売り上げは639両三分、その内伊勢茶は183両余で呉服に次いで第2位である。

又、寛文9年(1669)7月作成の「算出帳(八年分)」の中に、伊勢茶の記述があり、敦賀湊を経由して出羽方面に伊勢茶が相当量販売されていた様子が伺われる。

〇西村宗栄広信(現多気町相可)

相可商人の豪商(大和屋)、射和の富山家と並ぶ大富豪、「秋田藩地誌」に〝大和屋3代目西村宗栄広信(1617〜1704)は、若いころ出羽秋田に下って回漕業を営み巨利を得る〟とあり、その頃、射和・相可商人が出羽秋田と交易を盛んにしていた時代と一致し、伊勢茶も大和屋の主要な取引商品であったと推察できる。

〇中村七兵衛(千原家)

松坂中村七兵衛家の身内の者、最上地方で活躍、元禄6年〜正徳2年(1689〜1712)に至る20年間に伊勢茶を主に販売高5,222本とあり、宝暦末年まで伊勢茶を扱っていた。

〇村川太兵衛

享保元年(1716)伊勢材木村より楣岡(村山市)に移住、当時楣岡を代表する豪商で、享保8年〜元文2年の店おろし帳に伊勢茶1,308本販売の記録があり、村川家は幕末には館林藩の飛び地、村山郡の「楣岡御用達衆」に任ぜられた豪商でもある。

〇松坂町商人

松坂商人が江戸で扱った品物の代表的なものは木綿、呉服であるが、江戸初期においては茶も主要な産物であったことは、以下の記述が証明している。

「三重県茶業概観」に松坂商人は木綿を以て財を成したと云われているが、元禄〜宝永年間(1688〜1710)の松坂商人(三井、伊豆蔵)商品の中に菜種製茶が見られ、また、「松坂権輿雑集」新町の項に「川俣谷にて製したる煎茶、関東に輸送の問屋多し、宝永7年寅年町中茶荷875駄餘」と記され、松坂新町周辺には茶問屋が集まり、櫛田川、宮川流域の製茶を集荷し江戸や山城宇治に送っていた。中でも村田家は茶を扱う商人の中でも群を抜き豪商の一人に数えられている。

〇小倉藤兵衛(現松阪市飯高町森出身)

飯高郡森村の小倉家は惟喬親王に信頼を得た「小倉中納言實秀」を先祖に持ち川俣谷の木地師の総師を務める名家で代々吉右衛門を名乗っている。藤兵衛は小倉家舎弟で、早くから江戸で製茶問屋伊勢屋を営み手広く商売をしていたが、安政6年(1859)茶貿易が始まると横浜に移り、茶売込商として外国商社に茶を売り込んでいる。

註 後述の大谷嘉兵衛は小倉家とは親戚関係にあり、藤兵衛を頼って19歳のとき横浜に出て茶貿易で大成したことから小倉藤兵衛は大谷嘉兵衛の育ての親と云える。

〇堀内広域(現松阪市飯高町宮前)

飯高郡宮前村の堀内家は代々酒造業を基盤に、味噌、たまり、油、荒物などを手広く商う地主で、広域は寛政6年(1794)生まれで、家業を継ぎながら、25歳の時、茶業の有利性に目をつけ、茶部屋(製茶工場)と荷捌所を立て、自家の製茶のほか、近隣の川俣谷茶を買い集め、江戸送りを盛んにし、何度となく江戸に滞在し川俣谷茶を売り込んでいる。川俣谷茶は品質が良いことから江戸で人気を博し、茶業経営は順調であった。

  • 註一 広域は安政3年(1856)63歳で没しているが、その子、千稲は文久2年(1861)31歳の時に代々の酒造業を廃業し、茶業に専念している。
  • 註二 堀内家が茶業を廃業したのは、何時は明らかではないが、明治11年(1878)に開催された三重県内物博覧会の製茶の部の優秀賞に堀内利右衛門の名があることから見て、明治の中頃までは製茶業を営んでいた。
  • 註三 広域は家業に精を出す傍ら、本居大平(国文学者本居宣長の養子)の門下生となり、国学、歌学の教えを受け、優れた文人でもあった。

「蔵焼失の覚え」(和歌山藩御用茶問屋小林重兵衛家所蔵)

天和2年(1682)江戸本店周辺大火の際、江戸茶問屋が荷主宛に送った「蔵焼失の覚え」には次の記述がある。

天和二年 焼失の覚
御公儀様御所訴え節
一、土蔵大小四拾戸前
一、茶高凡そ六千本余
 内
一、小立三拾八本御地焼野荷持

「土蔵焼失の覚え」に記された江戸茶問屋の名:中村三郎右衛門(丸焼)、福田勘右衛門(丸焼)、長崎六郎次(丸焼)、中野仁兵衛(蔵2門)、小林庄三郎(蔵2門)、中條瀬兵衛(蔵2門)、長井利兵衛(無事)、中村喜兵衛(無事)、西村善三郎(無事)、上総屋吉右衛門(丸焼)、小津清兵衛(丸焼)、茗荷屋善五郎(蔵唐門)、富田利兵衛(蔵2つ)、長井五郎四郎(丸焼)、小津七郎右衛門(蔵2つ)、殿村彦八(不詳)、板屋与兵衛(丸焼)、上山四郎兵衛(丸焼)、低屋伝右衛門(丸焼)、野善助(丸焼)、中野吉衛門(蔵5門)、丸井甚四郎(無事)、小津次郎左衛門(無事)

  • 註一 天和2年の江戸大火と云えば、八百屋お七で知られる火事で、伊勢商人の根拠地、日本橋、伝馬町一帯を焼き尽くした。「土蔵焼失の覚え」には多くの伊勢商人の名前が見られる。
  • 註二 宮川流域の茶については小俣商人・山田商人が集荷し大湊から船運で江戸に送っていたとの記述がある。

茅広江の茶灯籠

櫛田川中下流の茅広江神社(松阪市茅広町)に江戸後期に江戸の茶問屋の寄贈で文久2年(1862)建立の灯籠がある。この灯籠は以前には伊勢本参宮街道「津留の渡し」付近に建てられていたもので、川俣谷から陸路を運ばれてきたお茶を、ここで川舟に積み櫛田川を下って大口港(松阪港)から海運で白子港を経由して江戸に運ばれたなごりの灯籠で、茶灯籠とも呼ばれていた。


江戸初期に射和・相可商人はなぜ出羽秋田・酒田と交易があったのか(著者推察)

江戸時代に入ると櫛田川流域の丹生水銀鉱山も衰退期に入り、多くの鉱山熟練者が職を失う事態となった。その頃、出羽秋田では、長間嶽金山、阿仁銀山など、多くの鉱山が開発され、秋田藩では全国から鉱山熟練者を招聘していた。元和3年(1617)の秋田藩「諸国之者調覚」によれば、伊勢国から180人の鉱山労働者が出稼ぎに出ているが、その殆どが丹生水銀鉱山の従事者であったであろう。

一方、丹生水銀で財をなした射和・相可商人も水銀鉱の衰退とともに取り扱う商品は変化し、木綿(呉服)や茶などが主要な商品となった。商人たちは鉱山従事者との縁を通して出羽秋田地方に進出し、江戸初期には、既に伊勢の産物と秋田米、庄内米など回漕業を通してバーター取引を行った。その拠点が敦賀湊であり酒田湊であった。


写真・図版

江戸の茶商が寄贈した茅広の茶灯籠(松阪市茅広江町茅広江神社) 江戸の茶商が寄贈した茅広の茶灯籠(松阪市茅広江町茅広江神社)

丹生大師山門と丹生の街並(多気郡多気町丹生) 丹生大師山門と丹生の街並(多気郡多気町丹生)

相可商人発祥の地の街並(松阪市相可町) 相可商人発祥の地の街並(松阪市相可町)

川俣谷茶を川船に積み替えたと云われる櫛田川下流・現両郡橋付近(松阪市相可町) 川俣谷茶を川船に積み替えたと云われる櫛田川下流・現両郡橋付近(松阪市相可町)

今も残る丹生水銀鉱掘跡(多気郡多気町丹生) 今も残る丹生水銀鉱掘跡(多気郡多気町丹生)

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