一 川俣谷は伊勢茶発祥の地|川俣谷のお茶|108teaworks
一 川俣谷は伊勢茶発祥の地
〜室町時代の書「背書国誌」などの記述〜
川俣谷にお茶が伝えられたのは、おおよそ800年前の鎌倉時代初期と云われている。室町時代に書かれた「背書国誌」には〝京都高山寺の明恵上人は栄西禅師が宋国(中国)から持ち帰った茶の実を貰い受け、梅尾に茶園を造り、山城宇治、伊賀八鳥、伊勢川上、近江高嶋に分植する〟とある。栄西禅師が宋国から帰朝したのは建久2年(1191年)であることから伊勢川上に茶を伝えたのは、その茶園から茶実を採り近隣の諸国に普及したと考えると、1210年前後の鎌倉時代初期と考えられ、これを以て伊勢茶の起源としている。
それでは、明恵上人が茶を分植したと云う伊勢川上とはどこか。多くの文献には、雲出川上流の川上村(津市美杉町川上)から櫛田川上流の川俣谷(松阪市飯高町)一帯と記述し、その場所は特定していない。昭和31年に三重大学中野清作・松田延一の両教授が古老からの聞き取り調査でも特定に至らず、最近では民族学者で茶業研究家でも知られる松下智氏と著者が当地域の寺院の調査を継続しているが成果は得られていない。いずれにしても江戸時代には川俣谷一帯は銘茶の産地として茶業が盛んであったことには間違いはなく、川俣谷が伊勢茶発祥の地とする説には一定の説得力がある。
以下、伊勢茶発祥地説を裏付ける文献等の記述(要約)を紹介する。
「背書国誌」
室町時代に書かれたと云われる「背書国誌」には、〝明恵上人は栄西禅師から贈られた茶実を京都梅尾に播種し、之を山城宇治、近江高嶋、伊賀八鳥、伊勢川上に分植する〟とある。
「異庭訓往来」
室町時代の書「異庭訓往来」にも「背書国誌」と同様の記述がある。さらに同書には銘茶産地として京都梅尾、山城宇治、伊賀八鳥、伊勢河合を挙げており、伊勢河合は旧一志郡川合村ではないかとの説がある。
なお、三重県茶業概観(昭和27年刊)の執筆者若林亨は「異庭訓往来」の記述と真盛上人(慈摂大師)の関連について次の様に推察している。「真盛上人は文明11年(1479)一志郡大迎村(現津市一志町川合)に生まれ、足利義政の信仰を得て近江坂本に西教寺、伊賀に西連寺、伊勢に成願寺を建立しているが、真盛上人の足跡と当時の茶産地が合致していることから真盛上人は、茶を仏教布教の一具として普及伝導し、そうして設けた寺院の茶園が天下の銘園として宣伝されたと推察し、そして「異庭訓往来」記述の伊勢河合の銘茶は真盛上人の生誕地近くの寺院の茶ではないか」
また「日本歴史」(読売新聞社版)には室町時代の銘茶園として伊勢小山寺(現松阪市の神山一乗寺?)、丹波神尾寺、山城仁和寺・醍醐寺、近江石山寺ほかの寺院名を挙げていることから察すると、当時の茶の栽培は一般民衆より僧侶などが主で、封建支配下において農民は作物を選定する自由がなく、特権階級の寺領や庄園・荘園で主に栽培していた。なお、農民が自由に茶栽培を出来るようになったのは天正16年(1588年)の刀狩令(兵農分離策)以降であると考えられる。(なお書きは著者加筆)
「勢陽俚諺」
〝明帝の時、宋帝より茶の実を贈る。建仁寺栄西禅師が茶の実を持ち来たりという。又、其後梅尾明恵上人に贈りつつ梅尾に植え、又、宇治に遷し、又、伊勢川上に植し、又、江州高嶋にも植され初めなり〟の記述がある。
「勢陽雑記」
〝前茶は川上、多気谷、河俣辺の山中に要す〟
註 川上、多気谷とは、津市美杉町川上及び多気地域、河俣辺は現松阪市飯高町川俣谷一帯を指す。
「日本茶業史」(大正3年・1914年)
伊勢国の欄に〝伊勢は東南海に臨み、西北山を負ひ、風光明媚の古国にして、其土質は甚だ多く茶樹の栽培に適す。背書国誌に栄西禅師より茶実を斎し、之を梅尾の明恵上人に伝ふ。上人乃ち山城国梅尾、宇治、近江国高島、伊勢国川上に分植すとあり、是れ今の川俣茶の濫觴なり、聞く川俣はもと香畑と書き茶の香味を称せるより起れりと、彼の波瀬、月出、仁柿の如き、特に茶実を播下するの要なく、山間の衆木を伐採し雑草を艾除するときは、自から好箇の茶園と化し了すと伝ふ。蓋し川上は雲出川の上流、香畑は櫛田川の上流を指示するなるべし〟と記述している。
- 註一 三重県史においても日本茶業史の記述を引用している。
- 註二 明恵上人が茶を分植した伊勢川上は、雲出川上流部〜櫛田川上流部付近とし、伊勢茶の始まりは川俣谷であることを示唆している。ただし、当時は、現在の様な茶園として肥培管理することなく、山間の樹木を伐採し雑草を除けば立派な茶園となったと云っているが、恐らく更に遡る時代には山地一帯に茶実が播かれたとも考えられる。
- 註三 茶樹は1,200年程前大陸(唐国)から渡来したと伝えられているが、当時の唐では茶の栽培は主に山地民族が栽培していたので山の樹木という観念が強く、日本でも江戸後期までは主に山の傾斜に植えられ「茶山」と呼ばれていた。今日の様に平地に栽培し「茶園」と呼ばれるようになったのは明治以降である。
「三重県の茶業」(大正9年・1919年)
〝本県茶の起源は年代元より古く、之を植ゑ、之を煮ることを教えたるは何時の頃なるや確ならず、古書に記するところは、後鳥羽天皇の御宇文治3年4月、臨済の僧栄西禅師なる者ありて、宋に留学し、同建久2年江南の地より茶子を携へ帰りて、之を筑前国背振山に播下し、其後禅師は「喫茶養生記」を著はし、喫茶の風を天下に伝ふ。其の頃梅尾の僧高弁(明恵上人)なるもの京都の建仁寺に至り栄西より、其の種子を得て之を梅尾に播植し、後ち山城菟道に移し次で仁和寺醍醐、葉室、般若寺、神尾に及し、又次で大和の実尾、伊賀の八鳥、伊勢の川上、駿河の国清見、武蔵の川越等の地に植ゑ夫れより各国に茶園を見るに至れりと伝ふ。又川上とは櫛田川の上流にして今の一志郡川上及び飯南郡川俣村附近を謂ふ、川俣は往時香畑と称へたりしを以て銘茶園たるを知るを得べく、所謂川俣茶の濫觴也〟
同書「著名産地」欄の記述には、〝南伊勢、一志郡八幡村川上は、背書国誌にも記せる所謂伊勢の川上にして茶園の古きこと全県に比類なく、全村殆んど茶園を以て覆はれつつあり、春の茶時此方面に入込む茶摘女は2,000人を超ゆると伝へ、古へ僧高弁が一枝を植ゑ。忽ちにして十数カ村に美麗なる茶園を見るに至りしは蓋し地味の茶樹に適するものにて、下之川村、太郎生村、宇気郷村、多気村地方は今尚ほ品質優良なるもの多く、南伊勢に於ける製茶の本場となれり、次に飯南郡川俣村、粥見村は即ち川俣谷茶の産地にして、茶園の歴史も亦古く、南勢屈指の原産地たり、波瀬村は月出、桑原の名園のあるところ、柿野村は往古の仁柿の地にして共に玉露園多し〟とあり、この記述からも明恵上人が茶実を播いた伊勢川上は何処か特定出来ないものの、既に室町時代には、雲出川上部から櫛田川上流地域一帯には茶が栽培され銘茶産地として知られていたことが伺われる。
なお、明恵上人が茶を分植したとする伊勢川上には諸説があり、多気郡多気町牧泉寺の古文書から、現多気郡大台町栃原にあった五百羅漢寺(廃寺)とする説、現四日市市水沢町の飯盛山淨林寺伝記から宮妻峡谷とする説などがあるが、その後の茶産地形成の経過から、雲出川上流部〜櫛田川上流部一帯とする説を有力説としている。
(著者推察)
「背書国誌」記述の明恵上人が茶を伝えた「伊勢川上」について、蒐集した資料等から乱暴な推察を加えると、恐らく雲出川上流部の一志郡川上村近辺の寺院ではなかろうか。この地域は都と伊勢を結ぶ本街道筋にあり、北畠家の本拠地でもある多気(北畠神社)に近く、当時、都との交流は盛んであった。また、その後の茶産地の消長をみても十分根拠があると思う。
雲出川上流部に伝わった茶は、峠越えの櫛田川上流部の川俣谷に伝播し、江戸初期に至って紀州藩の保護と櫛田川下流の伊勢商人(射和・相可商人)の手で「伊勢茶」として全国に販売されたことから、川俣谷に一大茶産地が形成されたのが実態ではなかろうか。
















