10 日本茶の輸出

明治〜大正時代には、日本茶はアメリカに盛んに輸出されていた

江戸時代は鎖国といって外国との貿易は禁止されていましたが、安政6年(1859)に函館港・横浜港・長崎港で貿易が始まりました。

貿易が始まると外国から近代的な機械などがどんどん入ってきますが、これを買うお金(外貨という)が必要で、日本から外国に輸出するものは生糸やお茶・菜種油など農産物しかありませんでした。そこで政府は養蚕やお茶の栽培を全国に奨励し、お茶はアメリカを中心に輸出しました。

アメリカ人は日本茶を飲んでいたの?

当時のアメリカは建国百年足らずの国で、日本のお茶の様に決まった飲み物がなく、また、イギリスから輸入される紅茶は高価であったことから日本から輸出された安いお茶は大変人気がありました。

明治のはじめ、アメリカを旅行した人の日記には、日本茶ブームがわき起こり、ニューヨークだけで1,500軒ほどの日本茶喫茶店ができたと書かれています。アメリカ人は日本茶に砂糖やミルクを入れて飲んでいた様です。

その後はインドやセイロン(今のスリランカ)などの良質で安い紅茶が輸入されるようになると日本茶の輸出はだんだん少なくなり、昭和16年(1941)アメリカとの戦争が始まると日本茶の輸出は完全にストップしてしまいました。

日本茶輸出の先頭に立った大谷嘉兵衛

弘化元年(1844)伊勢国飯高郡谷野村(現三重県松阪市飯高町宮本)に生まれる。19歳のとき横浜に出てアメリカのスミスベーカー商会の茶買受人になり商才を発揮し、当時の茶貿易の新記録を打ちたてる。

その後、独立して茶貿易商「大谷」を開き、自らの道を拓く。中でも特筆すべきはアメリカが日本茶に高額の関税をかける法案に対して、アメリカ大統領マッキンリーに直接交渉して茶関税法案を撤回させるなど、日本茶輸出の先頭に立った。

外国商社が軒を連ねる横浜港・当時の賑わい
外国商社が軒を連ねる横浜港・当時の賑わい

お茶の輸送容器

お茶の輸送容器 江戸時代のお茶の容器は、信楽焼きの素焼きの茶壷にお茶を入れて、茶壷をコモ(ワラを編んだもの)で巻いて運びました。しかし、茶壷は土で出来ているので壊れやすいことから、江戸時代後期になると茶箱(木の箱)になり、明治時代になると紙袋に入れて運ぶようになりました。

お茶の生産者やお茶屋さんは、お茶を入れて運ぶ紙袋(30kg入る大きな袋)を「大海」と呼んでいます。明治時代にアメリカへ日本茶を紙袋に入れて送ったところ、袋も破れず、お茶の品質も変わらずに無事に送ることが出来たので、大きな海(太平洋)を無事に渡ったとの意味から「大海」と呼ばれるようになったそうです。


外国商社が軒を連ねる横浜港当時の賑わい
外国商社が軒を連ねる横浜港当時の賑わい
輸出用茶箱に貼られた蘭字ラベル(蘭字とは外国(西洋)を意味する)
輸出用茶箱に貼られた蘭字ラベル(蘭字とは外国(西洋)を意味する)

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